経済成長と個人の幸福、あるいは俵万智とマイケル・サンデル

 

空腹を
訴える子と
手をつなぐ
百円あれど
おにぎりはあらず

ゆきずりの
人に貰いし
ゆでたまご
子よ忘れるな
そのゆでたまご

 

2つの短歌は終戦直後の日本の世相を切り取ったもの、ではありません。震災3.11をきっかけに生まれた俵万智さんの作品です(『あれから』 俵万智3・11短歌集 所収。以降も同様)。


最初の短歌はカネがあってもモノが買えない状況を、二つ目はカネがなくともモノが手に入る状況を歌っています。21世紀の資本主義社会、市場経済の中にあって、突然エアポケットのように市場原理がワークしない状況が出現したときに作られた歌。

ベルリンの壁崩壊以降、市場原理こそがモノとカネの流通を円滑にし、経済成長を約束してくれるものだと歴史が証明したことになっています。最初の歌はですからそういう市場原理の優秀さを、震災3.11が今一度明らかにしてくれたと、読むこともできます。

その一方で二つ目は、カネが介在していないのでGDPにはカウントされない。けれども空腹は満たされ、幸福には数えあげられる、そういう事象があることを歌っています。経済成長と個人の幸福の関係を考える上ではこの二つ目に、焦点を絞るのが妥当かもしれません。

ただしながら私の興味は、二つ目より最初の歌の方にあります。

ここで問題提起してみたいのは、「そうだ私達はおにぎりをカネで買う社会に生きているな(昔はそんなことはなかった)」「(世の中が進んで、便利で結構なことだが)それで良かったのか」、ということです。ベルリンの壁崩壊以降、カネで買える対象、領域が急速に拡大してこなかったか。その確認と、それでよかったのか、という問いです。

男の子
三人寄れば
鬼ごっこ
始まっている
白い浜辺に

『サラダ記念日』の俵万智さんは今、沖縄石垣島に住んでいます。

あの震災3.11の日、俵さんは東京にいて、震災五日目にようやく仙台に住む自分の息子と出会うことができた。七歳の、シングルマザーの彼女の息子。そしてその時の子供の様子をみて、知人のつてを頼り移住、最後石垣島定住を決意したのだそうです。

「オレが今
マリオなんだよ」
島に来て
子はゲーム機に
触れなくなりぬ

島は、遊びをするのにゲーム機を必要としない、カネを支払う必要のない世界でした。

子どもらは
ふいに現れ
くつろいで
「おばちゃんカルピスちょうだい」と言う

ゆでたまごをあげるといった類のことなら、震災などという非常事態だけでなく、普段の日常生活にあたりまえに登場する世界が、そこにありました。

楽しげに
鈴なるごとき
響きかな
「じんがねーらん」は銭がないこと

90年代以降、「不平等社会」「格差の拡大」が論壇を賑わしました。しかし経済学者は繰り返し、格差の「拡大」は統計的に見て確認できないと述べていました。それでは何が経済学や統計的知見と、私達の日常の実感のずれの原因なのかがそこでは問われました。

原因はおそらく様々な要因が複雑に絡み合ったものっだに違いないのですが、カネで買える対象、領域が急速に拡大していたことも関係していたとは、考えられないでしょうか。

カネで買える対象、領域が拡大すればするほど、持っているカネの多寡が切実なこととなってきます。生活や人生のなかで、カネを使わずとも手にいれられるモノが多いほど、「格差」は小さな事象と思えることでしょう。

たとえば戦後ある時期まで、家庭の母親は子供の服を自分で縫っていました。最近子供の服を縫う母親、作る子供服の数はだいぶ減ってはいないでしょうか。初恋の彼のためにセータを編む女学生、作るセータの数はだいぶ減ってはいないでしょうか。

いつの間にか私たちは、「ホモファーベル(作る人)」から、「ホモペンド(支払う人 )」になっている。都市化は「ホモファーベル」から「ホモペンド」への変化を加速しました。終戦直後と今とでは、自営業世帯とサラリーマン世帯の構成比率はほぼ逆転しています。

ただその裏側には、カネで買える対象、領域が急速に拡大した、社会の変容があるのです。そしてその変容はすべてが売り物になっていく社会への、「選択」があっての話なのです。

「世の中にはカネで買えないものがあるんだ」は、すべてが売り物になっていく社会の中で、いまやほとんど規範的意義を失っています。規範として妥当かを議論するのではなく、選択の、意思の問題としてそれは取り扱われるべき段階にあります。

カネで買える対象、領域と、カネでは買えない対象、領域のバランスの問題、線引きの問題として、選び取っていかなければなりません。「もうひとつの可能性」としての、日本社会。別のバランスを選択している未来を、想像し、構想し、企図するのか。しないのか。

ところでおにぎりに、すべてが売り物になっていく象徴を認めるのでは足りないと、『これからの「正義」の話をしよう』のマイケル・サンデル教授は指摘しています。

「昔から非市場的な規範が律してきた人生の側面に、市場や市場志向の考え方が入り込んできたことは、われわれの時代における最も重要な展開のひとつである」「健康、教育、公安、国家の安全保障、刑事司法、環境保護、保養、生殖、その他の社会的善を分配するためにこうした市場を利用することは、三十年ほど前にはほとんど前例がなかった。こんにちでは、その大半が当然のことと受け取られている」(『それをお金で買いますか』)。

そして、「お金の力がおよぶべきでない場所はどこだろうか」「現代の政治に欠けている重大な議論は、市場の役割と範囲にかかわるものだ」と警鐘を鳴らしています。

経済成長と個人の幸福の関係を考える際、「カネで買える対象、領域と、カネでは買えない対象、領域のバランスの問題」は思考の補助線とならないでしょうか。

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