「ピア」の力、あるいは「World Cafe」方式~セミナー備忘録:第六回「働き方と組織の未来」ダイアローグセッション。(下)

5.「会社を生きる」から「社会を生きる」へ

本田由紀氏は『社会を結びなおす』で、「新しい社会モデル」の必要性を訴えている。そこで「社会」と言っているのはただし、「仕事、家族、教育」、この3つの関係の束のこと。その新しいモデルが必要だ、と。

『社会を結びなおす』

20世紀型のモデルで、この21世紀、社会を維持していくことはむずかしい。「失われた○○年」の混迷は、噴出する諸問題を「menbership」をコアにした古いモデルをそのままに議論しているからだ。

「仕事、家族、教育、」この3つの関係を、これまで「menbership」が糊付けしてきたが、一旦それをやめて、「job」で繋ぎ治そう、という提案が『社会を結びなおす』の骨子だ。

私はむしろ「会社を生きる」から「社会を生きる」へ、時代は少しづつシフトしようとしている、あるいはシフトしないと日本は持たないと考える。

言い換えれば内なるグローバル化が必要な時代を迎えている、日本社会は、ということである。

経済の世界でいうグローバル化は、国境を越え出ていく人、モノ、カネ、情報の状況を指す。内なるグローバル化とは、「会社」という境界を、人、モノ、カネ、情報が越え出ていく状況をイメージしている。

もう少し見方を変えてこう言ってみよう。

これまでの価値観は、会社の領域が私的な領域、家族の領域に浸潤していく、会社の必要や要求を個人や家庭が飲む、という形、あるいは矢印の方向性に高い優先度を与えていた。

これからはそれが逆転してゆく。あるいは単純な一方向だけでなく、逆の矢印の方向性も加わってくる、加わっても、いや加わったほういいんだ。つまり個人や家庭の必要や要求を会社が飲む、そうでないと、会社の基盤である社会が持たない。そういった時代認識と価値観が必要になってきているのではないか。

けれでもわからないのは、その経路だ。どういうpathを通ると、「新しい社会モデル」を基盤とした世界へ移行できるのか。

このとき、「ピア」の概念は意外と効果があるかもしれない。「World Cafe」方式が日本で「ピア」が指し示す、分散型ネットワークとそこで行われる「対話」を促すかもしれないからだ。

なぜそう考えるのか。次に平田オリザ氏の「対話」と「会話」、また「ディベート」との対比論をのぞいてみよう(『わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か 』)。

 

6.日本人は「対話」できるか

石川さんのセミナーのタイトルをもう一度確認してみる。

「第六回「働き方と組織の未来」ダイアローグセッション」。

ダイアローグ、「対話」とある。

平田オリザ氏は会話と対話を次のように定義している。

「会話」=価値観や生活習慣なども近い親しい者同士のおしゃべり。

「対話」=あまり親しくない人同士の価値観や情報の交換。あるいは親しい者同士でも、価値観が異なるときに起こるその摺り合わせなど。 (P95)

また「対話」は「ディベート」とも違う。ポイントは「自分が変わる」か、だ。

ディベートは、AとBという二つの論理が戦って、Aが勝てばBはAに従わなければならない。Bは意見を変えなければならないが、勝ったAの方は変わらない。 (P102)

「対話」は、AとBという異なる二つの論理がすりあわさり、Cという新しい概念を生み出す。AもBも変わる。まずはじめに、いずれにしても、両者ともに変わるのだということを前提にして話を始める。 (P103)

多様性受容から出発することが必要な時代とは、正邪をディベートで争い、白黒はっきりさせることが社会の問題の解決につながらない時代の到来を意味している。適不適を、お互いが納得することで、目の前の問題を意思決定していく時代だと言えるのだろう。

「全員が同意できる「正解」がない場合も、「理解できないけれど納得はできる」ことがある(●いま、求められる「対話する力」~ダイアログ型社会とディベート型社会)」。

さて、ところで、20世紀(とりわけ、高度成長時期)とは違う、新しい社会の状況に対し、21世紀のいま、「対話」で「地域」で様々な問題の解決を図っていきたい、しかし本当にそんなことが可能だろか。冒頭に引いたように、橋本さんはこれに疑問を呈していた。

「原理的には素晴らしいが実際に継続する仕組みにするのが難しい」「キリスト教文化や社会資本などご近所さんコミュニティの性質が欧米と日本では違うことが原因か」

その懸念には理由がある、と平田オリザ氏は、17世紀のパスカルの例を引き合いに出す。

「これからはちょっと込み入った話になるのでラテン語で書きます」とパスカルが手紙の中で書いていた事実をあげ、当時のフランス語は成熟しておらず、千年の風雪に絶えたラテン語でないと書けない、そういう事態があったのだ、と指摘する。

ことばは、社会・経済の実態や必要に応じて成長、成熟していく。

現在の日本には「対話」のことばがまだまだ未熟だ、というのが平田氏の見立てだ。急ぎ過ぎた近代化がその背景にある。

およそ、どの近代国家も、国民国家を作る過程で、言語を統一し、ただ統一するだけではなく、一つの言語で政治を語り、哲学を語り、連隊を動かし、ラブレターを書き、裁判を起こし、大学の授業ができるように、その「国語」を育てていく。 (P115)

二十世紀、日本、ドイツ、イタリアが、なぜあの無謀な戦争を引き起こしたのか。原因や理由は様々にあるだろう。(略)だが、言語の観点から言えば、「対話」の言語の欠如がファシズムを招いたのではないかと想像することはできないだろか。 (P121)

なにしろ、

後発の国民国家は、すでに答えの出ている近代国家のシステムを、合理的に、エッセンスだけを模倣しようとする。そこでは、無駄は排除され、スピードだけが要求される。(略)強いリーダーシップを持った為政者にとっては、「対話」は無駄であり、また脅威でさえあ(った)。 (P128)

だから、

現代社会は、ジェンダーや年齢といった区別なく、対等な関係で、「対話」を行うための言語を生成していく「過渡期」だと言っていいだろう。 (P119)

『わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か 』

この視座に立った時、「World Cafe」方式が日本社会に、「「対話」を行うための言語を生成していく」、とても重要な契機をつくるツールになっている、と思うのは決して私だけではないだろう。

がんばってください、石川さん。私も応援しています。

 

前のページ(中)4.誌上インタビュー


 

◆関連クリップ

●わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)の名言・引用セリフ一覧 – inbook(インブック) http://inbook.jp/book/4062881772

●いま、求められる「対話する力」~ダイアログ型社会とディベート型社会 http://www.nli-research.co.jp/report/researchers_eye/2013/eye140127-2.pdf

「全員が同意できる「正解」がない場合も、「理解できないけれど納得はできる」ことがある」。

●「罵倒ではなく本質的な対話を」 プラネタリウム・クリエーター、大平貴之さん http://news.biglobe.ne.jp/domestic/1029/nico_131029_3887135100.html

「サイエンス・コミュニケーション」の観点から、プラネタリウムと原発を論じた。

●宗教倫理学の展望と宗教者の役割──エネルギー政策を語るために http://www.kohara.ac/research/resume20140111.pdf

「伝統的共同体には、相互犠牲のシステムが組み込まれていた。 (しかし共同体を壊すことで成立した)近代国家は、その信頼関係を別の形で作らなければならなかった(→ナショナリズム)。(そこでの) 課題:「犠牲」の意義をいかに健全に保つか、また、拡張できるか(国家的価値に回収されない拡張性・公共性)」。

●合意形成と「情報共有」について http://www.iges.or.jp/jp/scp/fairdo/pdf/activity20130927/2_presentation2_date-city.pdf

「教室方式」から「円卓方式」への転換を訴える。「車座」を成功させるには、「想像力」と「創造力」そして「沿う増力」、と。

(以上ブログ:「詩想舎の情報note」 https://societyzero.wordpress.com/2014/01/31/01-4/ より)

● プレゼンテーションとは「対話」であり「贈り物」である: 「聞き手の問い」でスライドをつなぐ http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/01/post_1931.html

対話や教育は市場原理から遠いところに位置する営為。3つの問い:「僕が、この情報を提示したら、現場のどういう人に”刺さる”だろうか?」「僕が、この情報を提示したら、その人は”具体的にどういう疑問”をお持ちになるだろうか?」「現場の方々の、生じた疑問に対して、次に、僕が、どのように”次の情報”を提示すれば、「聞き手」と「話し手」とのあいだに、いわゆる”対話”的関係、別の言葉でいうならば”情報のキャッチボール”が成立するだろうか?」。

●ここに注目! 「原発大国フランスの廃炉」 http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/300/141387.html

対話の中から解決策を模索する、が、絵に描いた餅とならないフランス。

●「黒川レポート」日米評価格差に愕然 http://facta.co.jp/article/201301004.html

日本における責任の所在の不明確さと知的不誠実さの問題について。東京電力福島原子力発電所事故調査委員会の手による「国会事故調査報告書」から見えてくる、日本社会の「対話」的知の現在。

(以上ブログ:「詩想舎の情報note」 https://societyzero.wordpress.com/2013/01/25/00-73/  より)


たしかにことばによる理解は、「生き」るという経験のごく一部でしかない。けれどもことばが作る「社会」なしに、「生きる」ということはありえない。

21世紀、ことばがデジタルになっていく。

そのことの「社会」や「生きる」への、インパクトを考えてみたい。その時ebookに何ができるのかも。

Author | 詩想舎の情報note https://societyzero.wordpress.com/author/

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